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般若心経 私考 1

 

まず一番最初におとなえするこれは、このお経の題目(タイトル)にあたります。

摩訶とは、お釈迦さまの時代の古いインドで使われていた言葉で、「マハー」偉大なるまたは大いなると言う意味を、このお経をインドから中国(唐の時代)に持ち帰り、その時代の中国の言葉に訳された、孫悟空の活躍で有名な西遊記にも登場する玄奘(ゲンジョウ)三蔵法師が漢字の音にあてたものです。 これは次の般若と若波羅蜜多にも同じ事が言えます。(三蔵法師とは僧侶の位の一つで、他にもたくさん三蔵法師がいらっしゃいます。) 我が国では鬼の事を(特に恨みや憎悪を強くともなった想いを持つものを)般若と言うことがありますがこれとは全く異なったものです。(これの語源につきましては私自身まだ勉強不足です・・・) 般若とは、「パーニャ」または「パンニャ」の音訳で、これは智慧と言う言葉にあたるのですが、ここで注意していただきたいのがこの智慧と言う文字です。
仏教では一般に使われます知恵と言う文字・言葉と、ここで言う智慧と言う文字・言葉を明確に区別しています。 この違いはかなり重要です。
知恵とは一般的な人間の知恵、知識、発想、アイデア、それに基づいた行動や生き方を指し、言うなれば『生きていくための術』と言ってしまっても過言ではありません。 またこれを分別という言葉で表現することもあります。「あの人はとても分別のある立派な人だ。」などは誰もがよく聞くほめ言葉の一つで、人格者を形容する言葉でもあります。

しかし、仏教ではこれを「有漏の法である」(漏れのある考え方)だと言い切ってしまってます。
これには少なからず驚かれる方もいらっしゃるでしょう。「立派に生きる事がなぜ漏れのある生き方、考え方なのだろう?」「もしそれが本当ならば世の中に秩序もなく、今まで正直に生きてきた自分の生き方さえ否定されてしまう。」そんな想いにかられてしまう人もいらっしゃるかも知れません。

ここがこのお経を人々に伝えて行くことの最も難しい所です。

他宗ではありますが、臨済宗の禅の大家、鈴木大拙師のお言葉の中に「苦しみの根元は無明にあり、無明とは分別より生ずる」と言うものがあります。奥深い言葉です。これを私なりに要約すると「苦しみとは、大切なことを見失ってしまう人間の愚かさに始まり、それは通念に囚われた一般的判断、または価値観によって生まれる」と言うことでしょうか…。
もしかしたら、最初からこんな難しい話しをしてしまうと敬遠してしまう方がいらっしゃるかも知れませんが、この素晴らしいお経の深意を正しく自分自身で掴み、自らの人生を実り多きものとするためにはこの知恵と智慧の違いを理解する事は(それを実践できるかどうかは別として)避けては通れない道なので、どうか今しばらくおつき合い下さい。(先の鈴木師のお言葉の深意も、こ般若心経の話を進めていくうちに皆さんの心の中、より深くに染みこんで行くことと確信しております。)

それでは、漏れのない考え方、智慧とはいったいどういったことなのか? それがこのお経の中で明らかにされている御教えなのですが、ここで少し、簡単に具体的な例をあげてこの「知恵」と「智慧」の違いを考えてみたいと思います。

もし、あなたが、身の回りの誰かにいわれのない悪口を言われたとします。相手が話し合って通じる相手ならば良いのですが、世の中そんなにうまくは出来ておりませんし、反論しようにもとりつく島もありません。当然の事ながらあなたの心中にはやり場のない怒りや悔しさが沸き起こることでしょう。このままではその気持ちばかりに囚われてしまい普段の平和な生活もままなりません。

さあ、どうしましょう?

ある人はこう言います。「あなたが我慢すれば良いのよ。 我慢してればそのうち氷の溶ける日も来るでしょう。」

またある人は、「あなたはなにも悪くないんだから、どうどうと言い返してやりなさい。相手が聞こうが聞かまいが、どんどん言い返してやりなさい。諦めちゃ負けよ!。」

またある人は、「それがあなたの運命よ。 逆らってもなんにも変わりはしないわ。」

またある人は、「もっと頭を使って、相手を飲み込んでしまいなさい。あなたの方が上手なのよ。それでも駄目なら思いっきり仕返ししてやればいいのよ。」

またある人は、「そんな低俗な人相手にしては駄目! 『可愛そうな人』って思ってるぐらいでないと・・・」

等等、またこの他にもいろいろな考え方があるでしょう。
これらの考え方が(一括りにしてしまうのは少々乱暴かも知れませんが・・・)言うなれば知恵であります。もっと分かりやすく言い換えればこの知恵とは、今おこっている事、または過去におこった事や未来におこるであろう事や状況に対しての対処法であり、またそれらに基づいたルール・秩序のことなのです。

それでは、仏教で言う智慧とは?
それをここで説明してしまう事は少し先走りしすぎの感があるのですが、かいつまんで言いますと、状況に対しての対処法ではなく、起こっていることや起こったこと、起こりそうなことをよく観察し理解して(場合によっては極限まで)正しく価値あるものとそうでないものとに取捨選択する事です。(?この言葉で良いのかどうか少し疑問なのですが、他に言葉がありません。本当は分別して取捨選択するまでもない事でしょう。) そしてここでもう一つ注意しなければならない事は、この知恵と智慧の違いは、どちらが優れた考え方なのかではなく、この二つは違うものなのだと言う事を認識することです。(余談ではありますが、現代の社会生活のうえで生きていくのに仏教的理想の形とは、この智慧に基づいた物事の認識の上にその都度ごとの知恵を駆使して状況に対処していくことかも知れません。)

次に波羅蜜多ですが、原音では「パラミータ」と言い漢字での音訳ですから、前述の摩訶や般若と同じく字面に意味はありません。
これも現代の日本の言葉、またこのお経の深意を説明するための言葉として直訳する事はとても困難な作業で、アカデミーな場所ではこれをよく「完成」の意味であるだとか「彼岸へ至る」の意味であるだとか言いますが、私自身どれももう一つしっくりこないと言うのが実感です。

私は、やはりここは「実践」または「実行」とするのが一番適切ではないかと思います。(これにつきましては今後も私の研究課題です。)

そして、心経ですが、これは先の三つのような音訳ではなく意訳です。
本来、般若経とは大般若経六百巻を始めとした膨大な巻数に及ぶとても複雑な御教えです。
ですが、その真意とはとても単純明快にして明らかなのですが、最終的結論を前倒ししてしまうと先にも述べましたとおり様々な誤解が生じ、取り返しのつかない誤りを犯してしまう恐れが大きくなってしまい、 それを回避するため念入りな理論の構築がなされ、漏れのない御教えとして完成されたのが諸々の般若経群なのです。

しかしあまりにも膨大すぎて、とっかかりさえも掴めないのでは全く意味がありません。そこで「般若の御教えの最も重要なエッセンスを抽出して般若心経と言う二六二文字の短いお経に要約しました」と言うのがこの心経の意味です。 (またまた余談になりますが、経と言うのは古代インドでは「スートラ」と言われ縦糸と言う意味で、仏陀の御教えが縦糸のようにいつの時代までも続く大切なものと言うことで、これが中国で経〔これも縦糸と言う意〕と言う文字が使われるようになったものです。) 以上を踏まえて摩訶般若波羅蜜多心経と言う題目(タイトル)の意味を振り返ってみますと、『(諸々の苦しみから脱却するため)偉大なる智慧を実践する最も重要な御教え』となるのではないでしょうか。

                                                                                                 次回へ続く…

 

 

 

 

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