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般若心経 私考 2

 

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五薀皆空度一切苦厄

 

さて、いよいよこの般若心経の本文に入っていくわけなのですが、まず最初にこのお経の説かれました場面を説明致します。

時はお釈迦さまのご在世中、いまから約二千五百年前、所は祇園精舎で有名なマガタ国(これは、昔インド地方に有った一つの国、昔のインドはこういったいくつかの国の集まりでした。)の首都、王舎城(シュラバースティー)の近郊にある聖なる山、霊鷲山(りょうじゅせん、鷲の頭に似た岩があることからこの名前が付きました。また耆闍崛山【ぎしゃくっせん】と呼ぶこともあります。)で、お釈迦さまがこの般若の御教えをお説きになる大法会を開かれているとき、その傍らの観自在菩薩がお釈迦さまの一番弟子の舎利子(智慧第一の別名で有名な舎利弗【しゃりほつ】の事です。)に質問され、般若波羅蜜多(智慧の完成・実践)の修行体験をお釈迦さまに代わって語りだそうとしている場面だと、前回お話致しました般若経群の中の大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)と言うお経の中に示されております。

このことから一般的には最初に観自在菩薩のお名前が出てくることから「このお経は観音さまがお説きになったお経だ。」などと言う方がいらっしゃいます。しかし、これはあくまでもお釈迦さまの法会で、観自在菩薩はお釈迦さまに成り代わってお説きになってらっしゃるのですから、この御教えの本質そのものがお釈迦さまの御教えなのだと理解するべきでしょう。

観自在菩薩=観音菩薩(観世音菩薩)。この方は菩薩衆の代表格と一般的には知られています。これはもちろん誤りではないのですが、(なぜそのように言われるようになったのかは私自身まだ納得のいく答えを見いだせてませんが・・・)この観自在菩薩とはどういった菩薩さまなのかと言う所から掘り下げてみますと、観自在、即ち世の全ての事柄を自由自在に正しく見る(観ずる)事ができる菩薩と言う事になります。(余談となりますが観世音菩薩《観音菩薩》とは世の全ての音を見るように聞く《観ずる》事が《これは即ち人々の救いを求める声を聞き逃さないと言う意味も含んでいます》できる菩薩と言う事です。)

当然の事なのですが、覚りを開かれ、如来(仏)となられたお釈迦さまも世の全ての事柄を自由自在に正しく見る(観ずる)事ができるお方です。(また言い換えれば世の全ての事柄を自由自在に正しく見る(観ずる)、と言う事自体が覚りの本質なのかも知れません。)

ここで考えてみたいのですが、観自在、いわゆる世の全ての事柄を自由自在に正しく見る(観ずる)事ができるなどと言う事が果たして現実的に可能なのでしょうか? 「それは仏さまなのだから神通力や超能力等を駆使すれば容易い事です。」と言ってしまえばとても簡単です。ですが、正直、私はこれを好みません。なんだか曖昧な言葉でお茶を濁されているように感じるからです。
 
ではどう考えれば良いのか? 実はその答えこそがこの般若心経の主旨だと思います。

このお経の冒頭の文言に、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五薀皆空度一切苦厄 〈意味→〉 観自在菩薩は深く智慧の完成・実践のための瞑想・思索を修行していた時、存在するものを表す五つの要素の全てが、実は空であると見極められ、あらゆる苦しみや災いをとり除かれました。」と、あります。これはこのお経の導入でもありますが、同時に結論でもあり、また同時に観自在菩薩はこの「存在するものを表す五つの要素の全てが、実は空である。」と言う事を見極めたことによって初めて観自在菩薩となられたと理解できます。

この「存在するものを表す五つの要素の全てが空である。」と言う事が実は般若そのものと言っても過言ではないのですが、しかしそれを正しく理解するには大変な忍耐力と集中力を要します。

しかし、敢えて話をこのまま理論的に進めてまいりますと、このお経では「存在するものを表す五つの要素」の事を五薀と言う言葉で表してありますが、この五薀とは、色(物質的なもの全て)、受(物事に対して あるいは起こった事に対して沸き起こる気持ち 感情 感受性)、想(先の受に基づいて沸き起こる思考 感想 判断 思うこと)、行(先の三つに基づく行い 行為)、識(先の四つを包括するもの 意識 またアイデンティティーとしても良いかもしれません。)、のことです。

話が少し複雑になってきましたが、人間が認識する世の中の全ての事柄は全部この五薀によるものだとこのお経では説かれてあります。そしてこの五薀はみな空であるとも説かれてあります。(空とはよく無と混同されますがこれは大きな誤りです。これを無と認識してしまうと虚無感に苛まれ、取り返しのつかない大きく誤った考え方で道を踏み外してしまうのでご注意下さい。この空につきましては話の流れ上、後日、述べさせていただきます。)五薀が空であるならばそれを基にして沸き起こる一切の苦厄もまた空なのであると言うのがこの御教えの基本です。

ここまでお話して、もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、今まで述べました事が示します通りこのお経はまるで数学のような公式的解説で成り立っています。
そう、まるで、A+x=C  B+x=C ゆえにA=B と言ったような感じです。
ここがこのお経を理解するときの一番最初の壁かもしれません。しかしその逆に、単純明快、反論の余地のない完璧な御教えとして永く、また広く人々に受け入れられて来たことも事実です。

話が逸れてしまいましたが、数学の公式のようなこのお経を考えるうえで一番重要なことは…、要約された言葉(例えば五薀や空など)を正しく理解しなければならないと言う点です。

少し理屈ぽい話が続いてしまいましたが、出来るだけ話を分かりやすい方向へ戻していきたいと思います。

ここでこの五薀についてより深く理解できる、よう例を使って考えてみましょう。  

ここに○○さんと言う人がいます。(この「いる」ということを認識することが即ち色であり、また観察者でもある自分の識でもあります。・・・ややこしいですね。)この○○さんの目の前でヨチヨチ歩きの幼子が転びました。○○さんは急いで駆け寄り、泣き叫ぶその子を抱きかかえて怪我がないかを確認して「大丈夫。大丈夫。」と優しい言葉をかけました。

これを先程の五薀に置き換えて考えてみますと、○○さんにとって目の前にいるヨチヨチ歩きの幼子を認識することが即ちその幼子の色を認識するということであり、その姿に「まあ可愛い」と浮かんだ気持ちや、またその子が転ぶ姿を見たとき心に浮かんだ「あぶない!」だとかがこの場合の○○さんの受です。 そして「助けに行かなければ・・・」と思った、また感じたことが想であり、実際に行動して駆け寄り助け上げて「大丈夫。」と声をかける行為が即ち行です。 そして識とは、この○○さんが今まで生きてきた間に蓄積、また構築してきた 幼子を見て「まあ可愛い」と思ったり、転ぶ姿を見て「あぶない!」と思ったり、「助けに行かなければ・・・」と思ったり、「大丈夫。」と声をかける全てが○○さんの識なのです。これが他の人なら全く違うものとなったかも知れません。そしてこれは助けられた幼い子の五薀にも影響を与え、またこれを観察しているあなたの五薀にも影響を与えるのです。

世の中の全ての事象の認識はこの五薀によって始まり、五薀無いところには認識する存在も対象も何も存在しません。またこの認識と言うキーワードをはずしたところには苦しみも喜びも人間の存在すらもあり得ないのです。
 
試しに身の回りのさまざまな事項(今回の例は好ましい場合ものでしたが、好ましく無い事態等に当てはめてみる方がより分かり易いかもしれません・・・)に当てはめてみてください・・・。

次回へ続く

 

 

 

 

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