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般若心経 私考 3

 

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五薀皆空度一切苦厄

前回は五薀について考えてみましたが、今回は観自在菩薩がこの「五薀はみな空である」と明らかにされ、これが全ての苦しみを解放する鍵なのだと言う御教えについて考えてみたいと思います。
 
前回にも少しお話ししましたが、この「空」と言う言葉…、その解釈によってこのお経の心髄がかなり違うものになってしまうほど重要なものなのですが、やはりその概念を理解、また解説するのはかなり難儀なことです。

巷に氾濫している手垢のついた(表現が不遜で申し訳有りませんが・・・)「空」の考え方でお茶を濁してしまってはせっかく仏さまが下さいましたこの御縁がもったいなくも無駄になってしまいますので、どうかここでは完璧な理解ではなく、これから皆さんご自身の人生の中で掴み取っていただく「空」と言う考え方を解釈するガイドライン程度でお読み下さい。

さて、これも前回のお話しの中で出てまいりましたが、「空」と言う言葉は三蔵法師がこのお経をインドから中国(唐)へ持ち帰り、これを中国語に訳した時に当てた文字です。

よく「無」と混同されるこの「空」なのですが、当時ももちろん「無」と言う文字はあったのに三蔵法師は敢えてこの「無」と言う文字を使わず「空」と言う言葉にこだわられました。このことからもこの二つは似ていても全く別の物なのだという事がうかがえます。

ではこの「空」とは、現代の日本語に訳するとどうなるのか?

原語では”スニャータ“と言い、少し乱暴なのですがそのまま単純に訳してみますと「あるがまま」となります。

もうこのままで充分「空」の考え方の答えなのですが、しかしこのままでは「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五薀皆空度一切苦厄」の意味のつじつまが分かりづらいですよね。

ですので、もう少し詳しく掘り下げてみることにしましょう。

「あるがまま」・・・何があるがままなのでしょう? これの答えは「全ての存在の本質そのものが・・・あるがまま・・・」と言うことになります。まだかなり分かりにくいので例をあげて考えてみましょう。

ある人がある時、知人に悪口を言われとても傷つきました。この状況の中で有る苦しみとは、この人の「心が傷ついた」と言うことです。このことについて般若の御教えでは、「その傷ついた心そのもの「空」がである。」と説くわけなのですが、それを一般的に言われる「無」で解釈しますと、「心なんて元々目に見えない、無いに等しい物」となってしまいます。

これで納得できますか?

できなくて当然! むしろ、できないほうが健全です。

有るものが無いなんて、そのまま理解できるほうがおかしいことではないでしょうか。この事がこのお経を・・・また覚りや、ひいて仏教自体をも必要以上に難解にしている根元のような気がします。

では「空=あるがまま」で考えてみましょう。「その傷ついた心、そのものもまた、あるがままである。」・・・なんだかもう一つ訳が分からなくなってしまいました。

これでは、「傷ついた心も、そのまま、あるがままに受け入れて我慢しなさい」と言うことになってしまいます。これでは、仏教の本来の目的である「清々しく生きる」と言う事とはかけ離れたものになってしまいます。

実は、ここで忘れてはいけないのが「全ての存在の本質そのものが・・・あるがまま・・・」と言う事であって、決して「その傷ついた心そのものもがあるがまま」と言う事では無いと言うことです。

もし人が苦しみに苛まれ、その苦しみからの解放を願うのであれば、まず第一に、その苦しみをもたらしている自己の心の本質に接するべきなのです。

この場合、「知人に悪口を言われた」と言うことがきっかけになってこの人の心の中にさまざまな感情が生じます。(五薀で言うところの受)親しい人の裏切り、他人に自分の思っている事とは全く違う受け取り方や解釈をされての不満、そんなことを言われる筋合いは無いと言うプライド、等々・・・。そして大抵の場合はそれに基づいた想が生まれ行が行われ識が因縁を深く増長させていきます。しかしこれではなにも本質的には解決されず、いつまで経っても心に清々しい光は射し込みません。
肝心なのは、なぜ「自分の心が傷ついた」のかと言う所です。もちろん相手の悪口を言うといった行為が引き金なのですが、相手の撃った弾が自分の心の何処に当たって傷つき、またそれは何を基準にしたものなのか? それはとても複雑に絡み合った糸を解くような根気のいる作業です。しかし不可能な事ではありません。

そしてその時大切なのは、自分の心を美化して自分に嘘をつかないことです。そのような場合、意識・無意識に関わらず大抵の人は自分に嘘をつきます。

「私はそんな自己美化的こと思ってない。」と自分を誤魔化しても、何らかの自己美化的な考えがなければ「心が傷つく」はずがないのです。

多くの場合、それに蓋をしてしまっているため問題がより複雑になっていってしまうのでしょう。

多分、人間の暮らしの中で、そんな蓋が多ければ多いほど、人は苦しみを生み出す種を多く持っているように思います。

まあ、「空=あるがまま」ということは、そんな蓋を一つ一つ開けていく・・・と言う事かも知れません。

時には蓋を開ければまた蓋があったなんてことが往々にしてありますが、「空」とはそんな蓋を全て明け切った時に開けるありのままの姿の事であり、清々しい境地の事で、 その時に知ることができる新しい価値観こそ、人が人として人生を全うするための、苦しみから解放される唯一の術で、このお経に説かれている「空」の心髄なのです。

今はそこまでを言うべきではないのかも知れませんが、結論から言えば、「人生、その本質を見据えれば、たとえどんなにとてつもなく大きな苦しみであろうと大したものではなく、それよりも大事な事が、今の自分の目の前にあることに気付く事が大切である。」と言う事でしょう。

それに至るまでの理論構築はこの紙面では、表現しにくいのですが、これが「空=あるがまま」と直感的に理解していただければと思います。

以上の事を踏まえて「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五薀皆空度一切苦厄」と言う文言を解説致しますと、「観自在菩薩は人々が人生の苦しみから解放されるのはどうすれば良いのかと深く思索され、その結果、ついに『人々は実体のないものに囚われ、自ら苦しみを増大させている。それよりもありのままに、もっと大切な事に気付き、それを基準にして自分の人生を見つめ直せば、おのずから苦しみの本質は消滅し、解放されるであろう。』と明らかにされました。」と訳するのが適切かと思います。

世の中の全ての事象の認識はこの五薀によって始まり、五薀無いところには認識する存在も対象も何も存在しません。またこの認識と言うキーワードをはずしたところには苦しみも喜びも人間の存在すらもあり得ないのです。

試しに身の回りのさまざまな事項(今回の例は好ましい場合ものでしたが、好ましく無い事態等に当てはめてみる方がより分かり易いかもしれません・・・)に当てはめてみてください・・・。


 

                  次回へ続く

 

 

 

 

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